英語教育について思ったことです。
さて、前回こういう記事を書いたのには、実は裏テーマがありました。
雑誌の読書会(英語ディスカッション付)が楽しいです。 - In the Field
それは、2月27日の文科省からの英語教師(大学生)向けの履修カリキュラム発表を受け、僕が感じたことを書いてみたかったからです。
ニュースの発表を受けて、文科省が設定した英検準1級という目標や現状について、ブログやニュースコメントが色々と意見が出ていました。
TOFLEがいいとか、英語の先生は英検も取っていないのかとか、社会で使える英語力とはetc.
僕は、考えるべき論点はそういう小手先のことではないと思います。
文科省の取り組み
文科省の批判になりかねないので、先に評価できるポイントを挙げておきます。
ちなみに、今回発表されたコアカリキュラムというのは、英語に限ったことではなく、政府が重点と見る薬学、医学ではすでに大学教育に導入され、医者や薬剤師の基礎能力の育成を図っています。
人の命に関わるような職業と、英語教師の扱いを同列にする時点で、文科省が本気を出したと言えます。
一部では遅過ぎるという批判もありますが、オリンピック開催に乗じて標準化に乗り出したのは順当な口実です。
今回の英語教師向けの指針案ではないですが、おそらく、今回の方針の決定の根幹をなすこの資料に書いてある議論が本質でしょう。
外国語ワーキンググループにおける これまでの検討事項に関する論点 補足資料
資料を読むと、高校生の英検準1級取得が推奨されている点が、英語教員の養成カリキュラムに反映されたと理解してよさそうです。
英語と英語教育について考えること
僕は、根本的に英語というのはツールに過ぎないと思います。
これは他の自然科学や人文科学と比べると考えるまでもないです。
(英文学とかを否定するつもりはないです、英文学は文学ですし)
だから、目標=英語習熟として議論しても意味がないと思います。
最終的な目標は、英語がどう使えるかを教えることです。
コミュニケーションのツールとしての英語を考えると、得られる情報量の違いがまず挙げられます。
僕は職業的に英語の文章を読むので特に感じます。
また前回の記事に書いたように、話せることで同じ話せる人から聞いたり、元の英語記事も読めれば世界はもっと広がります。
コミュニケーション以外の例えば文化や思考方法を学ぶために使うことができます。
英語特有のディベート、プレゼンテーションを知ることは、翻って日本語や日本語ベースの思考を深く知ることにもなります。
また外国からの学生や出稼ぎが増えている中で、他国の宗教や価値観を知っておいてもよい(べき)場面が増えてます。
日本語で他国の文化を学ぶには限界があり、その意味で、原語の(あるいは日本語よりは普及してる英語の)習得が必要なはずです。
英語の先生にはそういった、英語を使えばどう世界を広げられるのか、教えられる素養が求められるべきだと思ったのです。
ただ僕的には、子供には格好いい大人になってもらいたいので、英語くらいできるようになってもらいたいと願うわけです。
そういう意味で、最終目標にはして欲しくないですが、通過点としての英検は悪くないのではと思います。
田中